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2006年4月20日 (木)

コクーン歌舞伎 「東海道四谷怪談」 まとめ

コクーン歌舞伎 「東海道四谷怪談」まとめ

ようやっとコクーン歌舞伎「東海道四谷怪談」の「南番」を見た。
都合、北番を二回、南番を二回見たので、以下に双方の比較をして
みたい。


○ 南番の構成
  浅草奥山→地獄宿→裏田圃→浪宅→伊藤家→浪宅→隠亡堀→蛇山→仇討ち

  北番の構成
  浅草奥山→地獄宿→裏田圃→浪宅→伊藤家→浪宅→隠亡堀→三角屋敷
  →小平内→三角屋敷→夢の場→蛇山(仇討ち無し)


○ 台本構成は北番のほうが格段によかった。
  穏亡掘までは同じ場割りだが、台本はずいぶんちがう。

  浅草奥山。
  伊藤家の一行が伊右衛門を「ストーカー」しているくだり、南番では
  何もなく伊右衛門を見送るが、北番ではそのあと乞食(実ハ塩谷浪人・
  奥田庄三郎)が伊藤喜兵衛に接近する。
  そこで一悶着あり、伊藤家が高師直に連なる一家であることが明示される。
  同時に塩谷家の浪人が「スパイ」として徘徊していることも明らかになる。

  
  南番では与茂七は「ただの小間物屋」として登場し(歌舞伎座本と同じ)
  茶店に立ち寄る。
  北番では、伊藤喜兵衛と乞食が廻文状を奪い合っているところに登場し、
  乞食(奥田庄三郎)の窮地をを救う。
  与茂七がただの小間物屋ではなく、塩谷家サイドの人物であることが
  ほのめかされる。「早く裏田圃に行けよ」という台詞が面白い。

  北番の台本では、伊藤喜兵衛一家が権力を行使し、周囲に対する支配を
  強めようとしている人物であることが強調される。
  (直師方、というだけで、言ってしまえばそのような「役回り」になる)

  南番の原稿台本では、伊藤一家が何ものなのかがよくわからない。
  「よくわからない」一家が伊右衛門を追い回す面白さ不気味さがあるとも言える
  が、原作に近いのはもちろん北番である。

○ 地獄宿。
  北番の台本では、直助がお袖に金を与えるものの、のちに同業者の藤八五文
  売りが売り上げを回収しにくるくだりがある。
  「四谷怪談」の物語の中で、一見自由に動いているように見える直助も、
  じつは「奥田家」(塩谷家サイド)の没落によって経済的に貧窮している
  ことが示される。
  つまり、直助も伊右衛門と同じく、もう一人の「塩谷浪人」なのであった。

○ 裏田圃。
  奥山での伏線が効いているので、北番では与茂七と奥田庄三郎の「密会」が
  効果的である。
  「鎌倉へ」という短い台詞も「仮名手本忠臣蔵」の世界につながる意味で
  たいへん面白い。同時に、与茂七がなぜ小間物屋に身をやつしているのか
  という意味も明瞭である。
  (南番の台本には伏線がないので、ここではじめて与茂七の本当の身分を知る
   ことになる)

  南番の殺しは歌舞伎座版とほぼ同じ。
  北番は勘三郎が直助とお岩の「声」をやる都合もあって、すべて舞台上で
  展開される。(花道使用ナシ)
  直助がススキヶ原に包丁を投げ込むと、すぐに伊右衛門の刀が飛び出してくる
  くだりは面白くさえている。
  北番で勘三郎がお岩・直助二役を替わるのはいかにもムリがあるが、お岩と
  お袖の「偶会」を子役の遠見で見せたのは面白く美しかった。

  歌舞伎座の美術ではいつも用意されている地蔵が今回はない。
  これはあってもよかったのではないか。
  奥山の「仁王像」→地獄宿の「閻魔の絵」→裏田圃の「地蔵」
  とすべてを見ている無機物(であり、仏教的偶像物)の視線があれば面白かった
  のではないかと想像する。

○ 浪宅・伊藤内。
  南番・北番共に従来の演出を踏襲している。
  いつものとおり三味線・胡弓を使う南番に軍配が上がる。
  北番は音楽(録音)の寸法に合わせて芝居をするのが歌舞伎の本質に反して
  いるため失敗。伊藤家での照明も装飾過多。
  北番は回り舞台でお梅を見せたくだりだけが面白い。
  伊藤家の人物像だけに限って言えば浅草奥山との関連で、北番のほうに
  明瞭さがある。
  北番の幕切れにトランペッターが現れて突然ジャズ調になるのは困った。


○ 隠亡堀。
  北番は青い衣装を着た人間を並べて掘に見立てている。
  水が「まるで意志を持っているように」人間を飲み込んだり戸板を運んで
  来たりする、という演出意図はわかるが、その狙い以上にマイナス面が
  大きい。水の怖さが無く、また関連のない場面でも「人間がやっている」ために
  主人公達の人間ドラマを邪魔する存在になっている。
  水門からの与茂七の出現もあいまいだ。
  遠見が消えて背後に抽象画が現れるのも意味を持たない。

  南番。
  おおむね現行演出と同じ。掘は94年コクーン版と同じく本水。
  94年版は歌舞伎座の美術をそのまま縮小し、本水で見せた。
  (94年の隠亡堀の写真はパンフレットに載っている)
  今回は、ベニア板で作ったような大道具で、草むら、坂道など、すべて
  「書き割り」「まがいもの」であることが強調される。
  豪華さという意味では94年版が面白かったが、今回のセットには、
  私が子供のころ、たとえば浅草花屋敷で見たお化け屋敷のような
  「ベニア板」「書き割り」「ペンキ絵」のキッチュな面白さがあった。
  照明は失敗していた。苔むした空間を強調するためか、グリーンのライトが
  使用され、フラットな光線の美しさが無い。結果として与茂七の登場も
  引き立たない。フラットな照明を「あえて」選択する抑制された演出プランが
  欲しかった。

  だんまりから幕切れまで。南北の台本では詳細なト書き(隠亡堀の空間自体が
  変質する)が記されているが、これは北番南番ともに採用されていない。
  他日見てみたいと思う。


○ 蛇山・仇討ち(南番)。
  蛇山の大道具も94年版よりシンプルになっている。
  伊右衛門が襖を破って登場し、「いまのは夢であったか」という
  サプライズ演出は無し。
  提灯抜けや百万遍のまわりにお岩が出てくるのは歌舞伎座版と同じだが
  コクーンの空間密度ではやはり面白い。
  また赤ん坊を渡すくだりも歌舞伎座版と同じだが効果的。
  そのほか、お岩の幽霊や鼠が劇場内各所に登場する。
  蛇山の全面にも本水があるが、これも(さして意味はないが)美しい。
  ただ、多少強引でも、蛇山の前に川が流れているとか、なんらかの
  状況設定(水のある必然性)が有ればなお良いと思った。

  さてお待ちかねの仇討ち。
  雪が降り、掘り割りに捕り手が落ちてゆくなか、激しい立ち回りがあるのは
  94年版と同じ。
  ただし、今回は大きな改訂が二ヶ所あった。
  ひとつは、背景に赤味がかった抽象画が使われている点。
  (94年版ではただ黒幕だけが用意されていた)
  これが良くない。黒幕、または遠見に白い雪、という歌舞伎のシンプルな
  美的センスが失われている。見づらいことおびただしい。
  美的な問題を譲ったにしても、この抽象画が仇討ちというドラマになんの
  意味も与えていないのが致命的。
  串田演出はコクーン版「三人吉三」(2001年)の大詰めで、従来の
  舞台装置を廃し、ただの立方体の空間に火の見櫓を置き、雪を降らせた。
  そのシンプルな美しさは従来の「三人吉三」の演出・美術をしのぐほど
  だったが、今回は逆の方向に傾いてしまったのが残念。

  第二点。伊右衛門が発狂したことが示される。一人で掘につかり、
  「首が飛んでも動いてみせるわ」と叫ぶ。(94年版では与茂七に追いつめ
  られたところでこの台詞を言った)
  また、客席に乱入し、狂乱のていで刀を振り回す。
  この解釈も「あり」だとは思うが、浪宅の後半以降続く怪異が、最後は
  冷徹な仇討ち=現実レベルの出来事に収斂される面白さが本来のものだと
  私は思う。そのためには伊右衛門が発狂していては困る。

  この二ヶ所以外は、耳に入った水を与茂七・伊右衛門が出したり、水を掛け
  合ったりするところもふくめて94年版を踏襲していた。
  しかし二ヶ所の傷は大きく、94年版より後退した。

○ 三角屋敷・小平内(北番)
  いずれも面白かった。三角屋敷と小平内を廻してみせることで、
  時間の経過が示されるのもうまい。
  (三角屋敷の前半は夕刻、廻った後は夜更け)
  浪宅で借金のカタに置いたソウキセイが、質屋の蔵におさまり、
  それを次郎吉が盗んでくるという論理性。
  「東海道四谷怪談」の中に二種類の薬(伊藤家の毒薬と、足萎を直す良薬と)
  が用意され、それが対をなしている脚本の周到さ。
  運びがすめて緊密なので、小平の幽霊が次郎吉を使ってメッセージを送るという
  怪談がリアリティを持った。
  (幽霊が「他人の口を借りる」という趣向は講釈などの話芸にもあるが、舞台化
   しても不自然ではないというのは稀有なこと)

○ 夢の場(北番)
  子役を使って見せたが、美術も音楽も美しく、面白い。

○ 大詰(北番)
  最悪の大詰だった。
  すっかり原作から乖離している。なにも原作通りでなくても良いが、
  加筆や趣向は原作の意図に矛盾してはならないだろう。
  先にも書いたが、この物語の大詰めは、怪異談の果てに、冷徹な現実が
  姿を現し、伊右衛門は討たれ、討った方の与茂七はそのまま高師直を討ちに
  いくというドライな構成に面白さがある。
  勘三郎の直助が登場するのも困る。勘三郎が出てこないと幕切れにならない
  というのなら、大詰めを「夢の場」にすればよかった。
  そうして、子役ではなく大人のお岩・伊右衛門の「美しかった時代」を
  見せればよい。
  大詰は北番・南番ともに不満が残ったが、順位をつければ
  ①94年コクーン大詰 ②南番 ③北番 である。


○ まとめ。
  台本構成は北番のほうが面白い。ただし北番のラストはぶちこわし。
  北番の台本で、大詰めは南番式(原作に近い)、もしくは「夢の場」を
  持ってくればよかった。

  南番は94年コクーン初演のバージョンアップという触れ込みだが、
  実際には「追加」が「後退」になっていたケースが多い。

  北番の台本は良い出来(補綴・竹柴徳太郎)、これを今後は歌舞伎座でも
  使うと良いと思う。(三角屋敷なしでも使えるはず)
  
  演技について。
  勘三郎四役はどれも良い出来。とくに初役の直助、前から良かった与茂七は
  上々だった。
  橋之助、笹野高史、亀蔵、いずれもよかった。
  扇雀はお袖がよく、与茂七は柔らかみは薄かったが、物語を推進させる側面は
  よかった。(容姿よりも台詞が面白い与茂七)
  弥十郎。直助がまずい出来だったので南番の面白さを半減させてしまった。

  94年版の面白さを思い出すと(配役は勘九郎・橋之助・染五郎・孝太郎・吉弥
  で現在のコクーンのメンバーとは随分ちがう)今回の南番の「趣向」に拍手喝采
  できない部分もあった。しかし、それはしかたがないだろう。

  わたしは2003年「夏祭」の大詰にパトカーが登場したのに衝撃を受け、
  感動したが、次回の「夏祭」にもう一回パトカーが出てきたら?
  刺激の本質とはつまりそういうものなのだろう。

  北番の実験は台本を大事にしたことで、効果をあげた部分が大きい。
  次回はどんなものを見せてくれるのだろう? 

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