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2006年6月 2日 (金)

また「邯鄲」を観た


五月は、歌舞伎や落語などに「当たり」が多く近ごろにない楽しさだった。
五月の演舞場「夏祭浪花鑑」「娘道成寺」、日本橋亭「桂小金治独演会」
東京芸術劇場「立川談春独演会」、国立劇場「謎帯一寸徳兵衛」「魚屋宗五郎」
紀伊国屋ホール「イッセー尾形オンリーワン」そして五月二七日の観世栄夫の
能「邯鄲」である。(「幽の会」公演)
 シテ・観世栄夫、ワキ宝生閑、アイ山本泰太郎、子方山本凛太郎。
 「邯鄲」は能楽二六〇番のうちでも傑作中の傑作で、まず戯曲自体が素晴らし
く滅びない内容をもっている。栄夫のシテは「浮き世の旅に迷い来て」という
謡の文句通りに迷いの表現が色濃い。ワキ(宝生閑の謡、いつもながら素晴らしい)
に誘われ御輿に乗っていく道中も、視線が正面を外し、うつろな顔を見せる。
五十年の栄華を祝う舞は、広々とはいかなかったが、やがて台を外れ、舞台に
背を向けて腰掛ける後ろ姿の寂寥感ーー。そして夢が終わる瞬間の表現も
地謡(銕仙会メンバー)の強さと相まってすべて明瞭だった。
 「空下り」について。かつて戸板康二はこの演出を歌舞伎には無い繊細な
ものとして絶賛した。それはたしか、夢の栄華に、一瞬、影が差すーー
晴れた日に鳥の影が地上をよぎるような表現だと書かれていた。(どの本に
書かれていたのか・・・いま原典を参照出来ないのだが)
 この日、一緒に能を見た知人のKさんは、能舞台の表面が夢のレベルで
一畳台は乗り物、そして空下りによってシテがいよいよ夢の世界に没入していく
ように見えたという。(Kさんの表現を借りれば、たとえば、サファリパークを
走っていく観覧車から見物人が車を降りて歩き出したような、危険な感じ・・・)K
さんは邯鄲は初見だったのだが面白い感想だと思う。
 パンフレットに記された観世栄夫の文章。「若い時期に拝見した
桜間弓川先生の「邯鄲」は、あの大柄な先生が狭い作り物のなかでゆったりと
大きく舞われ、空下りを機に激しく狂っていく夢の世界、そして夢から覚めた
あとの静寂を忘れることが出来ません」。

 http://www.asahi.com/culture/stage/koten/etc/TKY200605230282.html

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